同年6月9日、焼討を憎む南都衆徒の強い要求によって、重衡は南都へ引き渡されることになり、源頼兼の護送のもとで鎌倉を出立。22日に東大寺の使者に引き渡された。『平家物語』には、一行が輔子が住まう日野の近くを通った時に、重衡が「せめて一目、妻と会いたい」と願って許され、輔子が駆けつけ、涙ながらの別れの対面をし、重衡が形見にと額にかかる髪を噛み切って渡す哀話が残されている。『愚管抄』にも日野で重衡と輔子が再会したという記述がある。
23日、重衡は木津川畔にて斬首され、奈良坂にある般若寺門前で梟首された。享年29。
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妻の輔子は重衡の菩提を弔うために出家して建礼門院に仕えた。夫婦の間に子は無かった。
重衡の死の3年後に鎌倉の千手の前は若くして死んだ。人々は亡き重衡を恋慕して憂死したのだと噂した。京都府木津川市木津宮ノ裏の安福寺には重衡の供養塔がある。
東大寺盧舎那仏像は重源の大勧進によって再建され、建久6年(1195年)に大仏殿の落慶法要が行われた。戦国時代に松永久秀によって再び焼亡し、現在のものは江戸時代に再建されたものである。
人物 [編集]
『建礼門院右京大夫集』によると、重衡はちょっとした事でも人の為に心遣いをする人物であり、いつも冗談を言い、怖い話をしたりして女房たちを楽しませていたというエピソードが残されている。『吾妻鏡』では頼朝との対面で「囚人の身となったからには、あれこれ言う事もない。弓馬に携わる者が、敵のために捕虜になる事は、決して恥ではない。早く斬罪にされよ」と堂々と答えて周囲を感歎させた。千手の前と工藤祐経との遊興では、朗詠を吟じて教養の高さを見せ、その様子を聞いた頼朝が立場を憚ってその場に居合わせなかった事をしきりに残念がっていたという。
官歴 [編集]
※日付=旧暦
応保2年(1162年)(6歳)
12月23日:従五位下
応保3年のち改元して長寛元年(1163年)(7歳)
正月24日:尾張守(頼盛の後任)
永万2年のち改元して仁安元年(1166年)(10歳)
11月18日:従五位上(中宮・藤原育子御給)
12月30日:左馬頭(宗盛の後任)
仁安3年(1168年)(12歳)
正月6日:正五位下(女御・平滋子御給)
8月4日:従四位下
嘉応3年のち改元して承安元年(1171年)(15歳)
正月6日:従四位上(建春門院御給)
承安2年(1172年)(16歳)
2月10日:中宮亮(中宮・平徳子)
2月17日:正四位下
治承2年(1178年)(22歳)
12月15日:春宮亮(東宮・言仁親王)。左馬頭如元。中宮亮を辞任
治承3年(1179年)(23歳)
正月19日:左近衛権中将
12月14日:左中将を辞任。春宮亮如元
治承4年(1180年)(24歳)
正月28日:蔵人頭
2月21日:新帝(安徳天皇)蔵人頭。春宮亮を辞任
治承5年のち改元して養和元年(1181年)(25歳)
5月26日:左中将に還任。従三位
養和2年のち改元して寿永元年(1182年)(26歳)
3月8日:但馬権守兼任
寿永2年(1183年)(27歳)
正月7日:正三位(建礼門院御給)
8月6日:解官